馬との出会

・馬と出会いによって、なにが始まるのか

全ては馬との出会いから始まります。

馬はスピリチュアルで美しい命です。

この「命」は私たちととてもよく似た感受性を持っています。

しかしその存在は私たちとは全く異なった「命」です。

この「命」は、異界と私たちが暮らすこの世界のちょうどの狭間に生きています。

そして、向こう側とこちら側を軽々と往き来するこの「命」によって、私たちにいつでも新しい奇跡を手にれることになります。

馬との出会いは私たちに、この特別な「命」を育てる事を決定づけることになります。

この、命を育て、命とより添うという態度は誰かに勧められたり、強要されたり、命令されたりして実行するものではありません、しかも、自らの意志によって実行するようなものでもありません。

他者からでも、私自身からでもない、まさに他力によって、この命に対する態度が決定づけられます。

この「命」に対する態度は奇跡と呼ぶに相応しい態度だと言えます。

こうした、命とより添う態度や、命を育てる態度は、生きるという事を産みだし、暮らしを生み出します。暮らしが生まれれば私たちの魂は再生を始めます。

馬と出会うことによって、私たちは魂を取り戻すのです。

・失ったものはなにか

もしかしたら、この言葉を聴いて、命が産まれれば、生きるという事は当然のことだし、生きるという事が暮らすという事なのだから、生きると暮らすは同じ事であり、生きるという事をわざわざ取り出したり、生きると暮らすを分割して思考したりするのは意味のない発言だと考える人があるかも知れません。

このような意見はとても正しいし、とても純粋だと感じます。

その証拠に、「命」「生きる」「暮らし」という3つの事は一体であり不可分であるという事実(魂)は馬の存在がいつでもその事を伝えてきますし、人間でも産まれたばかりの子どもを見ていれば、強くその事を印象づけられます。

ところが、この純粋な三位一体(魂)はこの世界から消えようとしている、もしくは既に消えてしまったと考えています。いや、そうではなく、破壊され、隔離され、駆逐されているのかも知れません。

「命をとるか、暮らしをとるか」という選択から逃れる事ができない人々がいます。

「生きる事に困難を感じる」という人々がいます。

このような感情や現象は、「命」「生きる」「暮らし」という事柄が1つの運動として成り立っている場合には産まれる事の無い、感情や現象です。

そして、この感情や現象は特殊な事では無く、この世界の構成そのものであると言えるほどもはや世界の本質であり、分断と崩壊こそが人間の存在の前提とすらなっています。

このままではいけない。私たちはそう考えています。

このままでは、私たちは細切れに切り刻まれた、利用されるだけのただの商品になっていまします。この構造は、商品の利用者と提供者という分類を不可能にし、すべての命は商品として存在することになります。

すなわち私たちは、「命」「生きる」「暮らす」が分割されていないような状態を意味する、「魂」を失ったのです。

・なにが分断を生み出しているのか

この「魂」の分断と崩壊を支援し補完し強化しているのが「教育」だと考えています。

この議論を進めるためには、「教育」とはなにをしているのかという確認が必要になります。日常的に使われ、私たちが感じ取る「教育」という言葉に意味は、広範囲にわたる意味おを持っています。学校教育、職場での教育、家庭での教育、先輩、後輩や友人と関係に 教育など、その範囲は広大です。

しかし、このようの「教育」という言葉が私たちに与える影響は、事実とは異なる幻想としての「教育」だといえます。

実際に私たちが目にしている教育とは、「学校教育」を指していると言って過言ではないと考えます。

もちろん、学校教育以外の教育がこの世に存在しないなどとは考えていません。

しかし、現代における教育とは基本的には学校教育を意味しているという意見に、反論できる人がいるでしょうか?

仕事を見つけるにも、学歴という要素が大きな意味を持ちます。

これは、良い悪いという議論ではなく、事実としてそうなっています。

これは、人生の大切な部分が学校教育と深く結びついていることを明確にしています。

学校教育は至上性はその拘束時間からも容易に理解することができます。

幼少期から青年期における、誰が考えても教育にとって重要な時期にもっと多く過ごす場所はどこでしょうか。

それは、学校です。

このように、教育が本来持っている多様性はもはや消えています。

もはや、教育とは学校教育を意味しているのです。

そして、本来は魂を自由に発芽させることが目的だった教育は死に、魂をズタズタにいする原因となり、まるで、そのことが目的となってしまったのです。

・教育に変わるものはなにか

このような世界によって私たちが破壊されないために、オルタナティブな教育が必要だと考えています。

その為には、まず「今」を認める事が大切だと考えます。分断と崩壊の中で生きる今、「命」「生きる」「暮らし」という3つの事柄はバラバラに存在している今、その今を認める事で、もう一度、「命」「生きる」「暮らし」という3つを紡ぎ直すという考え方と行動が見えてきます。私たちが「今」いる場所は、感じているよりもずっと苦しい場所なのです。

馬と出会い、命により添い、命を育て、生きる事をうみだし、暮らしをうみだすという一連の活動によって産みだそうと考えていることは、「命」「生きる」「暮らす」が一体であるという状態です。そしてこのことが、私たちの教育の目標であり、かつ、活動の前提条件となります。

目標であり前提条件である、この三位一体はフラジャイルな状態で推移します。分断から始まったものはいつでも簡単に分断してしまいます。

なので、この三位一体は学習という運動の中でより強い存在になっていくという、相互依存関係の中で展開されていきます。

教育の前提は三位一体であるが、この前提条件は教育によって補強されていくという相互依存関係が不可欠となります。

ここで、「学習」という事に触れておきます。私たちが用いる「学習」という言葉は、安冨歩氏による「生きるための論語」(ちくま新書2012)の中で詳しく説明されている意味での「学習」です。そしてこの「学習」が私たちが展開する教育の根幹を担う概念でもあります。

なので、こう言い換える事も可能になります。「命」「生きる」「暮らし」の3つが一体となった状態は学習を生み出すと同時に、学習は三位一体を補強し、三位一体が補強されればされるほど、学習の運動は強く広く深くなる。

私たちの教育(学習)は「暮らし」から始まります。

三位一体が実現した時に表象として現れるのは「暮らし」です。

ですので、「暮らし」から始まり学習(教育)がうまれます。

そして、「暮らし」と「学習」相互に依存しながら、生きるという事を実現していきます。

この順序と状態の中に、私たちの教育の本質が隠されています。

世界をみわたせば明確ですが、「暮らし」と「教育」は明確な分断によって構成されています。その意味では、分断こそ「教育」の本質であると言えます。もしそうなら、私たちが提供する教育は教育ではありません、私たちは学習を提供します。そいて、この時からオルタナティブでも無くなります。対象として教育が無くなり、私たちは運動としての学習を提供する事をめざします。

「暮らし」と「教育」との繋がりを強く持てばそれは、悪として評価されます。

子どもが学校に行かずに仕事をしていれば、それは理由や内容や感情に関わらす悪です。

分断が善で、統合は悪なのです。

もちろん、子ども達を搾取するという事実もあります。そして、その事実の量は驚くべき事に大量です。

しかし、その事を理由に、暮らしと教育を分断させる事の正当性を主張するとしたらそれは、全く間違った主張です。

子ども達が搾取される構造を生み出しているのは、「暮らし」と「労働」の分断です。

この分断なくして、搾取の構造は生まれません。もし、分断無くして搾取があるなら、それは、「暮らし」が「生きる」「命」と一体になっていないことを意味しています。それは、単に別の次元での分断を意味しているだけで、分断による搾取の構造という事は変わりません。

すなわち、子どもの為に労働から解放し教育を提供するという名目は、その事がまさに、分断によって教育を提供しますと宣言しているに等しく、分断を基礎とするという意味において、教育と労働による搾取も、同じ構造で展開される運動です。

ですから、当然、教育には搾取が内在しています。

暮らしと労働の分断、暮らしと教育の分断、このれは全くおなじ構造を意味しており、搾取と人間崩壊が内在する運動です。

この「暮らし」と「教育」の分断には悪意を感じます。この分断によって、「モダンタイム」(チャップリン)で表現されるような、歯車としての人間像が生み出される事になります。ある種の人々にとっては、人間は歯車である事が重要だと考えられていることは明白です。

分断を基礎とする教育は、社会の要請によって、社会に必要な人材を育成する事が目標であると発言します。

そして、この言葉を聞いて違和感を持たない人を増やす事が教育の成果となります。

この宣言を別の言葉で表現すれば、家畜化された人間、魂を植民地化(深尾葉子:魂の脱植民地化とは何か)された人間を育成する事であるとなります。このような状態は、魂の搾取と呼ぶこともできます。

分断を基礎とする教育は必ず知識の提供からその作業を始めます。

知識の提供は、疑問の提供、解決方法の提供などを含んでおり、教育の枠組みを規定していきます。

そして、この知識の提供は膨大な量になります。

このような教育の中では、与えられた条件の中で思考する事を強制されます。

与えられた条件の中で疑問を生み出し、答えを作り、想像力を発揮します。

しかし、全ての思考は、ある条件の内部の中から出ることはできず、枠組みを破壊したり、乗り超えたりする事は不可能な事になります。

選択の自由が不自由である事と同じで、この教育によって生まれる思考や活動は、その実行する人の感情とは無関係に、不自由なものとしてしか存在できません。

また、この枠組みの中で生きる人々は、膨大な量の知識を受け入れるという作業に没頭する必要が生まれます。この知識の消化という活動はほとんど狂気と思えるほどの時間と努力を必要とし、同時にこの知識の受入という仕組みから外れる事は、死を意味するという、生存をかけた行動というところまで追い詰められるようになります。そうなると、もう他のことを考える余裕は無くなりまた、そこから抜け出るという力も無くなり、より深くこの与えられた枠組みの中で生きる事を受け入れる事になります。

こうして分断を基礎とした教育は、人間のあらゆるものを引き裂き、自己を崩壊させていきながらも、社会という枠組みを強固に守る為に必死で働く事になります。

その活動は新しき人々に、この分断と崩壊の仕組みを補完的に与えるという循環を自らすすんで実行するようになります。悪意無く。そしてその中心を担う活動が「教育」なのです。

分断を基礎とした教育が自由を奪い、家畜化を推進し、魂を植民地化していくならば、その教育に対してオルタナティブであるためには分断無き教育を展開する事が必要です。

分断無き教育は、「暮らし」を基礎とする教育です。

しかし、もし「教育」の本質が分段だらば、もはやオルタナティブである必要はなく、私たちは「学習」を展開することになります。「学習」とは、暮らしを基礎として、暮らしと一繋がりの運動です。

私たちが、オルタナティブな教育という立場をとるのか、学習という立場をとるのかは、それほど重要ではありません。どちらの表現でも、その本質は暮らしを基礎とし分断無き教育もしくは学習という運動を提供するという事が大切な事になります。

分断を基礎とする教育は、全ての活動において、いかにして分断を成功させるかというコンセプトを貫きますが、暮らしを基礎とする学習は、いかにして暮らしの中で学習という運動が展開されるかというコンセプトを貫きます。

このように、暮らしを基礎とする学習と、分断を基礎とする教育はまったく異なった目標と方法論を持っている事がわかります。

暮らしを基礎とする学習では、まず始めに暮らしがあり、その中から生まれる「なぜ」という疑問や好奇心から学習が運動を始めることになります。この学習という運動の端緒がとても重要な意味を持っています。もし与えられた知識から始まった「なぜ」であるならば、学習の運動が始まるのは難しいと考えることができます。与えられた知識から生まれる「なぜ」は答えが必ずあるという前提の「なぜ」になります。この「なぜ」には、どこかに答えがあり、そして、それを知っている人がいる、もしくはネットや本にその答えが書かれているという前提です。暮らしの中から生まれた「なぜ」にはこのような前提条件はありません。答えの存在を前提した疑問や好奇心は、誰かの意見や誰かの考えを鵜呑みにする事によってでしか理解という感情を生み出すとができません。もちろん、これらの理解は本当の理解では無く、ただなんとく、分かったような気持ちなるという理解でしかありません。

「なぜ」という疑問に対する答えの探し方も全く異なる事になります。分断から生まれた「なぜ」は私以外の誰かや何かによって答えが降りてくるという前提で「なぜ」を考えます。なので自ら考える前に、誰かにたずねたり、ネットを調べたりする事になります。そういった外からの情報をインプットした後も自らが考えるという行為には移行しません。答えがどこかに必ずあるなら、自らが考える必要は全く無くなります。

ところが、こういった閉じた体系の中でも学習という運動に似たような運動を展開する事は可能です。もちろん、その本質は失われているので、実際には学習と呼ぶことはできませんが、そのような本当の学習と間違った学習の差異に体系の中にいる人が気付くのは大変な作業になります。

暮らしから生まれた「なぜ」は常に自ら考える事でしか理解という納得がうまれません。答えを知っている人がすぐ隣いて、その人から丁寧な説明を聞いたとして、その外部からの情報をもう一度自らに引き戻し、自ら考える事によってでしか、理解という感覚に至りません。

この2つの違いは、決定的で大きな違いとなります。

分断を基礎に置いている教育は自ら考える事を放棄させる事を目的として、暮らしを基礎に置き、暮らしの中で展開される学習は心身におけるありありとした納得を目的としています。(納得は解決をいみするのではなく、疑問があるという納得も含む意味での納得です)

このような議論をすると「人は考えられない人もいて、そういった人を引き上げる為に、まずは考えるヒントや、疑問のヒントを与えているのだ」という考え方が登場します。しかしこれは、非常に差別的な意見であり、暗黙のうちに管理する人とされる人という二項対立を前提とした意見です。

たいていの場合は、このような構造で考える人には悪意というものが無いので、さらに厄介な事を生み出します。他者の為を思えばこそという、啓蒙的な発想になります。

このような考え方は完全に間違っています。「暮らし」を実現できたなら、どんな人でもかならず、疑問や好奇心や探究心が生まれます。もしそういった感情が生まれないとしたら、それは、その人の個性や教育の提供方法について考えるのではなく、その人の暮らし方に注目すべきです。暮らし方の問題があるから、「生きる」事に付随して存在しているような本質的感情を発芽させる事ができないのです。

人間の持つ「命」「生きる」「暮らし」という3つの統合を意味する「魂」は成長という本質を持っており、その成長を担保する為の好奇心が必然的に担保されています。

もし、「魂」に付随する感情が生まれない状態であれば積極的に暮らしを整える事、暮らしを変えることが大事です。暮らしが整う迄は、知識の提供や啓蒙的活動は全く意味が無いどころが、悪意ですらあります。暮らしが整っていれば、一方的な知識提供や啓蒙的な知識提供は必要無いので、どちらにしても、一方的な知識提供や啓蒙的な知識提供は悪意であり、ハラスメントであると言えます。

ここまで見て来た事からも分かるように、分断を基礎とする教育と、暮らしを基礎とする学習は全く異なったものである事がわかります。

そこで、もう少し細かくこの違いを見てみましょう。

分断を基礎とすると教育が最も積極的に分断を誘発するのは、身体と脳の分断です。膨大な量の知識を無造作に降り注ぎ、その情報をきちんと処理出来なければ、生きていてはいけませんという前提条件を提示している事の意味は、あなたの身体は意味がなく、脳で考える事が意味あるのです・・という事の言い換えとなっています。こらは、あなた自身には意味が無く情報にだけ意味がありますという言い方でも表現できます。

もちろん、人間は心と身体は統合されていますので、このような分断は、身体と心を壊します。実際に多くの人が身体と心を病んでいますが、その根本的な理由の1つに分断教育がある事は明かです。それでも、分断教育はその方法を辞めようとはしません。その理由は、心と身体の繋がり統合を認めてしまえば、効率が落ちるという神話を信じて疑わないからです。何の効率がおちるのかは不明ですが、効率が落ちるという神話には疑いを持ちません、経済の効率、支配の効率が低下すると信じて疑いません。

この効率が落ちるという幻想は、幻想を前提にして作られている現存世界に措いて正しい指摘となります。

身体と心が繋がってしまうと、この世界で言われている効率が落ちます。

しかし、このような定義や思考の範囲は、与えられたものであり、本当の事ではありません。人間というのは本来心と身体、脳的なものと身体的なものが繋がって存在しています。このことを本当に信じていない人は多分いないと思いますが、明白な事実には、目もくれず、誰か作った世界を信じます。これもまた教育の成果です。

もちろん、心と身体が分断しているという前提で生きていくのは大変です。なおで、沢山の人が不調いなります。自らの純粋な心の声に従えば、間違っているという声が聞こえてくるはずですが、そのような問いかけすら実行される事はありません。

暮らしを基礎とする教育は、心と身体の一体性がとも重要な事であると認識しています。なので、あちら側の世界ではとても非効率な事を積極に導入する事になります。

私の働き方や、学習の方法や内容は、その人の体調や、関係性、自然のうごめきによって変化するという事がこの心と身体が一致している状態の活動方法です。

このような、他力による変化には現代社会は耐えることができません。そのような変化は悪であり、この世から駆逐されるべき思考だと理解されています。