メンタリティーの問題

これはね、ミスではなくメンタリティーの問題なんだよ。

ここが大事。

ミスや失敗とは比べものにならないぐらい、メンタリティーはもっと深いんだよ。

これを教えてくれたのは原田正純先生。

先生は、僕にこう言ったんだ。

チッソの問題は、仕組みの問題ではなく、メンタリティーの問題だよ。

これは凄く深い言葉だよ。

原田先生は、僕が世界で唯一僕が、まじめに先生とよぶ人だけど、この先生もこの間逝ってしまった。

最近よく声が聞こえるから、多分、僕が駄目なんだと思うけど・・・すみません。

それで原田先生は、メンタリティーの問題という言い方ををしたんだよ。

例えば、水銀を安全だと思って流すことは、これは、失敗で間違えで、ミスだよね。

もちろん、これも大変なことだけど、これもあってはならないことだけど、途中で分からないことにちゃんでと出会っているんだよ、水俣に関わったひとが、いつもと違う、何か違う、でもそれが何か分からない、自分の今までの価値や倫理を全て否定される可能性すらある、でも分からない。分からないから「やる」というのは、分かった言う意味でだから、分かったことにしてるんだ。

だから、分かったことにして、安全なことにして、さらに、明らかに弱い立場の人に自己選択という嘘をなすりつけて、ということは、もう全然、失敗とかミスじゃなくて、メンタリティーの問題だよ。

心のありよう。

これは、仕組みとかシステムから完全に排除される事なんだ。

どうやっても必ず排除される。仕組みとシステムは構造をもっていて、構造は力を持っていて、その構造はもちろん、意味ある世界の中の意味ある一部だけど、この構造の力に支配されると、構造を維持するために考えるようになる、いや、構造を維持するために考えないようになるんだ。全てを、分かったことにして、でも僕たちは何も分かってないよ。

分かってないまま生きるって、すなわち生きるという事だよ、これがまさに。

でも、僕たちはいつでも自分の意志で、このメンタリティーを取り戻せるんだよ。

どんな状況であってもこの部分は取り戻せるんだよ。

誰でも、出来る事なんだ。

でも、これは、凄く難しいと感じるかも知れない。

一個の命であれば簡単だけど、命を取り巻く関係が巻き付くと、凄く難しい問題になってしまう。

この命を取り巻く関係が構造の力だ。

でも、原田先生が言ったことは多分、人はいつでも一個の命になれるという事だと思うんだ。

僕は、一個の命の強さを信じているし、そうありたいと思っているんだ。

だから僕たちは、まわりのいろんな関係や、雰囲気とか、社会性とか、そういうことに紛れていつまにか、一個の命よりも、社会が優先して、社会的な生き方が優先してしまう事から逃げないと。

いつでも逃げ出して、一個の命として振る舞えるようにしておかないといけないと思うんだよ。